安倍殺害事件とマネジメント

大事件というのは、やはり、想像を越えたところで起きるものですね。
私は、安倍氏や自民党の支持者ではありませんし、アベノミクスやコロナ対応についても評価はしていません。むしろ、彼がやってきた「政治屋」「3代目」としての罪について問い質したい立場です。しかし、だからと言って殺害するという暴挙を許すことはできません。
今回の件について様々報道が続いていて、旧統一教会についてもようやく社会的な制裁が加えられるところに向かっているように思いますが、それだけに目を奪われ、ほかの怪しげな「宗教団体」についてもぜひ、厳しく批判される社会になってほしいものだと思っています。
前提論はこれくらいにして、今回の本題。この事件をマネジメントの視点で考えてみたいと思います。

一つ目は、犯人について。
事件を起こした事=不正・不祥事と捉えてみると、やはり、「不正のトライアングル」が存在していたのが明らかです。動機と機会と正当性の3条件が揃ってしまった。
動機は、「報復」旧統一教会にめちゃくちゃにされた人生・家族への恨みとそれに関与していた標的への報復。
機会は、実行しやすい環境が整ったこと。遊説が身近で行われ、なおかつ、手薄な警護体制が明白だったという事でしょう。
正当性は、自分がこんなになったのは自分のせいではない。旧統一教会のせいであり、復讐するのは当然であるという思想。
そしてなおかつ、彼の身近にそういう状態を注意し制止する人が居なかった孤独が根底にあったという事でしょう。
コロナの拡大で、再び、人々が孤立する環境が広がっています。収入の不安が高まり、生活困窮する人も増加するでしょう。ストレスの増加でトラブルも増えるに違いありません。不正・不祥事の発生リスクは高まっているのだという意識でいることが肝要です。

二つ目は、リスクマネジメントについて。
過去、大物政治家が命を狙われるという事件は何度も起きています。そして、遊説で発生する事は少なからずあるわけで、そのためにSPが警護する体制が出来たのです。でも、防げなかった。安倍の周囲にそういうリスクについて考えていた人は居たはずです。警視庁も奈良県警もそれなりに緊張感をもって望んでいたはずです。それでも事件は起きた。
例えば、今回は「手製の銃」が使用されていますが、あの場所で、安倍の命を狙う方法はいくらでもある。例えば、ダンプで遊説場所に突入するとか、周囲の建物からライフルで狙うとか、恐らくそういう想定はされていたでしょうし、遊説開始前に多くの警察官が動員され、周囲に監視の目を向けていたはずです。それでも事件は起きた。それも、あまりにも稚拙な警護を見せつけるような形で起きた。
多くの人が、SPが身を挺して守れなかったのかとか、どうして後方が手薄になったのかとか、疑問を持たれていると思います。こうしたことは一つ一つ検証され公表されるでしょう。(解明される頃には関心は低下しているでしょうが)
リスクマネジメントの基本は、「影響度✖発生頻度」の値をもとにリスク評価をしてコントロールを確立することです。(私は、「影響度✖発生頻度÷統制度」でのリスク評価をお勧めしますが・・)
当局は、今回の事件の、発生頻度を極めて低く評価していたのではないかと考えます。実際、長崎市長襲撃殺害事件が2007年ですから、15年近く同様の事件は起きていないことになります。国会議員となると2002年石井衆院議員ですから、20年前。警護に当たった警官の多くは、知識として知っていても、実経験を持ってない人ばかりだったはずです。そういう点からみると、やはり、組織的に今回の警護計画を指揮していたトップ層の危機意識・リスク意識に問題があったと言わざるを得ないと思います。

今回の事件を、単なる政治の世界の話にするのではなく、リスクマネジメントや不正防止という点で考えてみてはいかがでしょうか?

コロナ第7波とリスクマネジメント

また、コロナ感染者数が増え始め、第7波と判定されたようですね。
日本はウィズコロナ政策で、経済と感染予防の両立を目指す方向に舵が切られていますが、かなり難しい道を選択したと言えるでしょう。
とはいえ、一人一人が徹底した感染対策を行う事が最大の鍵になることは明白です。それを助けるための支援策や規制・新たなルール作りが必要だと思います。
企業・組織においても同様です。リスクマネジメントの視点で考え、有効な対策を準備することに尽きると思います。
おそらく、多くの企業・組織において、コロナによる経営的な損失は現在最も重要なファクターであり、コロナ感染者を出さない対策に躍起になっているはずです。
組織の状況をいくつかのフェーズに分け、その際の事業・業務の取捨選択のルールを定め、本部統制機関による指示命令も明確にされていると思います。

私の勤めているところでも、フェーズ設定され、コロナ感染者が出た場合、事業所の業務停止や、他事業所の行き来の禁止、外部との接触制限など細かく決められています。
昨年、このルールが定められてから、実のところ、2度ほど運用する状況に陥りました。(コロナ感染者の発生)
最初の発生時には、ルールに照らして厳格に運用され、行政機関(保健所)の指導のもと、早期に回復することになりました。
「PDCA」の「PとD」を経験したことになります。ただ、残念ながら、Cが進みませんでした。

リスクマネジメント委員会では議論されていたようですが、それは実のところ不十分です。発生は現場ですし、対策を講じるのも現場です。現場に一人一人の構成員が我が事として、振り返り、課題を見つけて改善する事に繋がらなければ、CもAも進まないのです。
結果、2度目の発生時、以前と同様に、本部へ指示を求めざるを得ない事態になりました。自律的にマネジメントできない事となったわけです。これでは、リスクマネジメントの意味がありません。
前回の発生時に、定めたルールが適切だったか、具体的な手順は妥当だったか、改善すべき点はなかった、そうした議論が徹底的になされていれば、このような事態にはならなかったと思います。
階層的な組織体制を敷いている法人組織が陥りがちな失敗を重要な局面で起こしていると言わざるを得ません。
これは、経営層の責任です。
リスクマネジメントは全社的に取り組むべき統制システムであり、構成員一人一人が自律的に判断し、事業所単位で合意形成したルールを組織で取りまとめていくという基本部分が欠落しているのです。

コロナと付き合い始めて時間が経過する中、様々な状況変化は起きています。
国の施策も大きく変わりました。
一度作られたマネジメントシステムは、その場からどんどん腐り始めるという普遍的な特性を理解し、常に、見直し、改善し、周知する覚悟こそ重要だと思います。
今一度、コロナ禍におけるリスクマネジメントについて、現状で有効なのかを見直してみる時期になっているのではないでしょうか?

高齢者だけでなく、障がいのある人や難病、病気と闘っている人など、コロナに対して命の危険にさらされる「コロナ弱者」は少なからず存在します。
そうした方々を守るために、何をすべきか、そういう視点で見直してみる必要があると思います。

PDCAについて考える

ことが上手く運ばなくなった時、どうしますか?
一度、振り返って、その原因を探り、原因を除去して,再開しますね。
至極当たり前のことです。
マネジメントの基本、PDCAの「C/A」・・チェックとアクションです。
では、チェックはどうすれば良いでしょうか?
いろんなアプローチはあると思います。

単純なプロセスなら、スタート地点から時間を追って、手順と実際の作業とを比較して、ミスにつながったところを見つけ、そこからやり直すという事が有効でしょう。
私は、PCを使って、データを整理したり、報告書を作成したり、Webサイトを構築したりする仕事が多いのですが、成果物に辿り着く前に、想定通りに進まない事があります。こういう単独の作業プロセスなら、手順(アプリの操作手順)のどこかで手落ちがあり、そこまでさかのぼることで回復するという経験が多いです。

組織的なプロセスなら、人・モノ・金・情報・場所の要素で、計画時の設定と比較して、不足を補い、再開するという事が有効でしょう。

これは、マネジメントの管理者が最も使うチェック方法です。目標達成型・成果達成型のプロセスでは、そのプロセスに必要な、人材・資材・技術・情報・施設などの条件とそれを維持するための資本(資金)がどうだったか、有効に活用できているかを評価し、不足・不備があればすぐに補充・補てんして、目標値の修正を行い、プロセスを達成させることになるでしょう。

もうひとつ、大きなプロセスの一つを担うようなプロセスならば、前プロセスの成果物の評価を行い、前プロセスの改善を求め、再開するという事もあるでしょう。
これは、製造など製品づくりにおける手法です。前プロセスの成果物の精度が次のプロセスの精度に大きく影響する場合、成果物の評価(検品)を強化する事で精度向上を図ることになります。

PDCAサイクルによって、プロセスのマネジメントを適切に行い、成果を得るためには、いかにC(チェック)が重要かが判っていただけるのではないかと思います。

さて、ここからが本題です。

私は先日、ある企画の実行委員会へ参加しました。
実行委員会には、様々な立場に人が参加していました。目標は、あるコンサートを成功させるというものでした。初回という事もあり、まずは目標や予算、開催意義などを医院で話し合いました。すると、当初の開催意義から大きく変わり、私の団体が参加する意義・役割が希薄になってしまいました。その点を指摘したのですが、主催者はあやふやな状態で会を終了させました。
市民団体では、こうした事はよくある事でしょう。
問題は、その後です。次の実行委員会開催の案内がなく、終了して連絡があり、「なぜ欠席したのか」となじられました。開催する事さえ不明瞭な終了をしておきながら、こちらをなじるというのはちょっと納得いきませんが、それは我慢してお詫びし、次回の日程を確認しました。
少し不安だったので、当日、開催の確認をしたところ、都合がつかず開催できないという返答でした。
実のところ、初回の委員会で、開催意義が大きく変更されてしまい、私の団体が関わる意味がなくなったことを告げると、「偉そうなことを言うな!何者のつもりだ!顔も見たくない」などと更に厳しい言葉でなじられました。
いやはや、困ったものです。
主催者は、古くから福祉活動に熱心に取り組まれ、NPOを設立して頑張って来られた方でしたが、ここ数年、上手くいかず、NPOを解散されていました。かなりのご高齢でもあり、様々なトラブルも耳にしていた方ですが、これが実際のトラブルなのかと少し納得した次第です。
人をなじるのは、相当のエネルギーが必要です。それはそのまま、自分に返ってきます。
ご高齢で人生経験がおありの方なら、それくらいな心得ておられるように思いますが、それはそれは、厳しい言葉でした。
この実行委員会は、うまくいくでしょうか?
主催・代表の方が、セルフマネジメントも出来ない方では、会全体のマネジメントもおぼつかないのではないかと感じました。
上手くいかない原因を他人のせいにするような発想では、きっと今後もトラブルが続くように思います。
関わられている方には、同情いたします。
個人の名誉のために、それと判るような内容は伏せておりますので、私の主張がどこまで皆さんに伝わっているかは判りませんが、市民団体であろうが会社組織であろうが、一つの事を成し遂げるためには、適切なマネジメントシステムが必要です。
トップに立つ人・会を率いるような人には、特に、セルフマネジメントをしっかり身につけていただくよう、願ってやみません。そうでないと、巻き込まれる市民、会社の社員は、たまったもんじゃありません。

情報とスキルと経験

先日、会議に向かう途中、若い職員と車の中で雑談しました。
春に異動してきた、確かまだ4年目くらいの職員の男性職員です。
それまでは、通所施設で働いていて、今の「相談センター」へ異動し、ようやく2か月が経過したところです。今、先輩職員の指導の下で研修を続けているのですが、そろそろ本格的な相談業務も受け持つようです。
彼がボソッと不満めいた事を言いました。
「相談に乗ると、いろんなサービスや制度に精通していないとうまく対応できない。でも、それをすべて頭に入れるのはできなくて、正しい対応ができるか不安です。」
当たり前のことを彼は悩んでいました。
長い経験を持つ相談員は、長い経験の中で得た知識をベースに仕事をしています。でも、時々、古い知識のままで大きな失敗をする事があります。社会福祉士などの資格を持つからといって全ての福祉制度に精通しているわけでもありませんし、地域によって制度の運用もまちまちで、最新の情報を手にしておくことは誰にとっても重要な事でしょう。
私自身も、この1年、知らない事ばかりに日々でしたし、その都度、調べて対応するのが精一杯でした。しかし、事務所にある「紙ベース」の情報が古かったり、間違っていたりでかなり苦労しました。また、書いてあることと運用実態が異なることもしばしばでした。訊く人によって答えも違ったりしていました。
こういう世界で真面目に仕事をしようと思うと、随分、悩んでしまうと思います。
実際、今、彼は、所長からマンツーマンで時間を取って、いろんな制度や相談業務のノウハウを教わっていますが、横で見ていると、意欲的に取り組んでいるようには見えません。教わる方と教える方で、思考の違いが明らかに感じられます。書類を見せられて、口頭で説明され、「覚えなさい」と言われても、彼にはそのこと自体にどんな意味があるのか判らないように感じているのではないかと思うのです。
彼曰く。
「判らない事があった時、スマホでサクサクと検索できると良いんですけどね。」
そう、今の若い世代は、そういうところは長けています。ちょっとググってすぐ使う。いちいち覚える(記憶する)ことにどれほどの意味があるのかという思考なのです。
「分厚い書類を開いて丹念に調べる」のが当たり前の昭和世代には「そんなんで大丈夫」と言われそうですが、私みたいな、昭和なおっさんでも、仕事ではほとんどGoogleを頼りにしていますから、彼の言い分はよく判ります。
今の若い世代に重要なのは、情報量・知識量ではないんです。それはネットで調べれば手に入る時代だから、それ以上の「何か」に価値観を持っているように思います。
学校教育の現場でも変化は大きくなっているのではないでしょうか?昭和世代のような「覚えること」中心の教育から「考えること」中心の教育へ変化しているように思います。
考えることは、発想力です。今ある価値観や理論に縛られず、もっと新しく有効で未来志向な発想を身につける事が求められているのではないか・・彼との会話でいろんなことを考えてしまいました。
経験で得たスキルや知識は、なかなか次の世代には渡せないものです。また、その経験には偏りがあり、知識・情報もどんどん古くなっていくものです。常にアップデートを繰り返さないといけません。
おそらく、アップデートできなくなった時、「老害」と呼ばれるのではないか。
我が身を振り返り「老害」になりつつあるのではと反省です。
ちょうど今、私は、この事業所のWebサイトを作成しています。そのWebサイトは、事業所の紹介PRはもちろんのこと、基幹センター機能の一つである「協議会事務局」としてのハブ機能を高めるため、様々な情報のデータベースを構築しようと作業をしています。
できるだけ多くのデータ(知識・情報)を取り込み、可能な限り、アップデートし、彼のような若い世代が検索して現場で使えるような情報データベースを作ろうと思います。
私自身が「老害」と言われるようになる前に、出来上がったものを引き継げるよう頑張りたいと思います。

BCPについて考える

先日、「防災訓練」の研修がありました。毎年、2回定例で開催される研修です。
今回の研修テーマは、「BCP(事業継続計画)」についてでした。
以前の職場(生協)でも、この手の研修は何度か行われ、実際、BCPについて具体的な計画策定プロセスについて、内部監査としても検証に携わっていました。
福祉分野での取り組みについては、殆んど門外漢であり、真面目に内容を学ぶ姿勢で受けました。
研修の冒頭は、厚労省が作成した「福祉分野におけるBCP」のVTR学習でした。その後、現在、私の勤務する事業所で整備されている「マニュアル」の検証を行いました。
現在、重要なポイントとなっているのが「感染症発生におけるBCP」で、コロナ感染が広がる中、どういう対応が求められるかを話し合い纏めました。当然、大規模災害におけるBCPについても話し合う時間はあり、緊急時の連絡リストの検証(安否確認リストの検証)を行いましたが、時間が足りず中途半端に終わってしまいました。
この研修中、私の頭の中にある疑問が浮かんでいました。

それは、該当事業所だけのBCPの議論に終始している事で良いのかということでした。

もちろん、個々の事業所でのBCPの話し合いは重要な事ですが、法人全体としてのBCPはどうなっているのか、全く把握できなかったのです。
私の働いている法人は、障がい者福祉に関する各種サービス事業を展開しています。
通所型の生活介護事業・就労継続支援B型、グループホーム、訪問サービス、地域活動支援事業、計画相談、そして私の働いている基幹相談事業など、多様な事業に取り組んでいます。
そして、それを支える職員は正規職員で100名弱の規模です。
仮に、大規模災害が発生した場合、それらすべての事業を継続する事は困難です。まずは職員が全て平常時と同様に出勤する事はできなくなります。人的資源だけでも確保は難しいでしょう。また、施設自体もどこまで使用可能かもわかりません。

滋賀県は海に面していませんから、東日本大震災のような「津波」被害はほぼ想定されていません。一方で、北側の福井県には、原子力発電所が並んでいて、放射線による被害が想定され、緊急避難という事態が想定されています。
否応なく、事業継続は困難になるわけで、利用者(障がい者)の避難に関して最も重要なファクターとなるはずです。自身の避難と利用者の避難、だれがどう進めていくのかはかなり大きな役割という事になります。

こうした非常事態を想定した時、何を残し、何を捨てるか、どこに限られた資源を集中すべきか、そういうBCPの基本的なスタンスが明確になっていないと、それぞれの事業所が限られた職員の奮闘で維持することになり、総体的にはバラバラに動いてしまって、崩壊してしまうはずです。
原子力被害による避難は特別な事態と考え、オプションとして整備しておく必要がまずは必要でしょう。
それ以外の、大規模災害(豪雨による広範囲の水害・地震災害・強大な台風による甚大な被害等)や、コロナをはじめとする感染症発生の事態といったケースごとの想定を行ったうえでBCPを考えてみたいと思います。

ここからは、私見ですが、
まずは、入所施設・グループホームの維持が最優先。そこは、人が暮らしている場所であり、中には、自立して暮らす事の出来ない人が暮らしています。命を繋ぐための事業として最重要拠点であるはずです。
更に言えば、通所型サービスでは、自宅(家族)で暮らしている方が多くを占めており、開所せずとも暮らしていける方が居られます。こうした、命の維持という視点で、継続(復旧)すべき事業の軽重を、まずは法人が示したうえで、人的・物的資源の集中を図る事が重要ではないかと思います。
そういうプランのもとで、タイムラインを設定し、通所の人的資源をグループホーム維持へ注力する形で整備し、法人全体のBCPを組み上げることが必要だと考えます。

そういう考えをベースにすると、事業所は何をすべきかがもっと明確になると思います。
私の勤務する事業所は、行政委託による「基幹相談センター」です。
日常的には、市内の事業所の協議体の運営も任されています。
その任務を考えると、大規模災害が発生した時、市内の事業所の状態(BCP運用状況)の把握や、人的物的資源を俯瞰して、市内事業者の協力支援が円滑に進むよう業務遂行する事が求められるのではないかと思います。
情報収集や支援体制の確立準備、中には、避難や移動に関する調整といった機能も求められるはずです。こうした事を想定して、日常的に何をしておくかをもっと深める必要があるように思いました。

残念ながら、厚労省のVTRでは、そうしたところまでは踏み込んでいませんでした。

福祉に携わる職員は、命をもっとも重視し、そのために粉骨砕身される使命感の高い方が多いはずです。だからこそ、経営層は、適切な価値判断と確かな理論に基づいて、しっかりとした計画と指示を出せるよう努力していただきたいと思います。

ちょっと話がそれてしまいました。
極論を言えば、BCPとは、何を捨て何を生かすか、その基準は何かを組織の中で一致させておくことなのです。
大規模災害発生時には、指示系統が整わない状況も充分に想定されます。もちろん、そのために、あらかじめマニュアル整備をしておくことは重要ですが、もし、マニュアルに想定されていない様な事態が起きたとしても、法人としての基準・価値判断が明確になっていれば、充分に事業の継続は可能になるはずです。
そうした議論や研修を日常的にしっかり行っておくことこそ、重要だと考えます。
(この記事は、私のSSブログ:GRICS内部監査マネジメントの記事からの転載です)

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マニュアルとリスクマネジメント

滋賀県へ転居して、もうすぐ丸4年を迎えます。

当初は、何もせず、のんびりしていましたが、縁あって、助け合い活動をしているNPOの事務局で働き、2年で退職。現在は、障がい者相談支援センターで働いております。

内部監査業務とはかけ離れた世界に身を置いて、戸惑いの連続でした。

内部監査をしていた頃は、仕組みとか規約・規程、マニュアル、エビデンス、マネジメント等々、理屈(理論)こそが重要な世界で泳ぎ回っていたように感じます。
こちらに来て、NPOや福祉法人に身を置くと、そうしたものとは無縁のように思っておりましたが、実は、マネジメント理論や内部監査業務は極めて重要だと感じ始めています。
先日、職場で「リスクマネジメントの内部研修」がありました。
内部監査時代にも、リスクマネジメントは学んでおりましたし、監査にはなくてはならない重要な視点であることは明白でした。
リスクマネジメントを充実する事こそが内部監査の重要な役割であったからです。
職場の研修は、責任者がPPを使って、リスクマネジメントとは何かを短時間で説明し、最終的には「業務マニュアルの再徹底」を確認する内容でした。
「おい!」と、つい突っ込みを入れてしまいたい中身。新参者ながら、ひとこと言わせていただきました。
「業務マニュアル」は何故必要なのか、もう一度考えてみてもらいたい。マニュアル通りに業務を行う事はどういう意味があるのか、そして、マニュアルにないイレギュラーなことが起きた場合どうなるのか、などを提起させていただき、結論として、リスク回避のために必要な手順がマニュアルであることを理解してほしいと締めました。
今の事務所には、数多くのマニュアルがあります。電話対応マニュアルや、朝の作業(鍵開け)マニュアル、室内の掃除マニュアル・・本当に細かいものまで、回数や使用する備品、中には切手の貼り付け位置といったものまで作成されているのです。
でも、肝心の「事故対応マニュアル」とか今回のような「感染症対応マニュアル」はざっくりしていて、私から見ると有効性が損なわれているというほかないようなものになっています。

何故か。
それは、マニュアルの作成方法に問題があるからです。細かく細部まで作られているマニュアルは、過去にトラブルやクレームがあった事象について、クレーム再発防止の観点で補強された経過をたどっているのです。
ですから、まだ起きていない事故やクレームについては創造力が欠如していて整備できないわけです。

長くなりましたので、結論とします。
マニュアルはリスク回避(マネジメント)を有効にするために作成するもの。だからこそ、業務プロセスにおいて、重大なリスク要因となるものを想像し、対策を講じる手順を纏める。もちろん、クレームやすでに起きた事故を教訓に手順(マニュアル)の充実を図る事は有効であるが、そこに囚われ過ぎないよう、リスク評価をしっかり行う必要があると考えます。
リスクマネジメントを基本に置いたマニュアル作成こそ有効です。

あわせて、リスクとは無縁と判断される「不要なマニュアル」は思い切って捨てる事も大事です。

ある研修から

職場である研修がありました。研修自体の内容はともかく、そこの中でどうしても引っかかったことがあるので、思考したいと思います。

引っかかった言葉は「言いたくても言えない、うまく伝えられない」という感情です。

その研修は、「誠実・尊重、信頼、肯定、自己責任」をポイントに、アサーティブコミュニケーションを身につけるという内容でした。
自分も相手も尊重しながら、自分の意見や価値観を伝え、対等に交渉できるコミュニケーションの方法論で、信頼関係を構築し、「心理的安全性の高い組織づくり」が目的だとは理解できましたし、それ自体は極めて当たり前であり、否定するつもりはありません。
 皆、そういうコミュニケーションができるようになり、快適な人間関係ができれば良いと思います。特に、政治屋の皆さんには、身につけていただき、国会でも国際政治の場面でも円滑にコミュニケーションをしていただきたいものです。

今回、引っかかった言葉に戻ります。
「言いたくても言えない、うまく伝えられない」というノンアサーティブな感情は、なぜ起きるのでしょうか?
 初対面、上司、何かと攻撃的、批判的といった人と会話する場面が多いのではないでしょうか?「言いたくても言えない、うまく伝えられない」という感情は、対人関係においては「自分がどういう人間と思われるかわからない」という不安・恐怖という感情が生み出すものだと思います。そういう人との「信頼関係の構築」とか「互いの尊重」という事は、すぐにはできません。時間が必要でしょう。果たして、アサーティブコミュニケーションのスキルは有効に機能するでしょうか? 
 そして、組織・集団においては、空気を読むとか、場をわきまえる、忖度する、など、「組織における個の統制」を強く感じる場面で生じる感情ではないでしょうか?発言する事に対して、批判されたり否定されたりすることを避けたい、「傷つきたくない」という自己防衛の感情が生み出すのだと思うのです。
 言い換えれば、自分の発言に責任を持つ覚悟(批判や否定、評価を受け入れる覚悟)があれば、そうした感情を抱くことは少ないという事です。
 SNSなどで匿名で誹謗中傷が横行する事が社会問題になっていますが、匿名にすることで自己責任を回避し「言いたいことを言う」風潮は典型的な例ではないでしょうか?「言いたくても言えない」から匿名で言ってしまおうという思考を助長しているSNSは、やはり規制されるべきなのだと思います。 
 以前の職場の先輩の一人に、かなり破天荒・無軌道な発言を敢えて、重苦しい会議で行う「ひねくれもの」が居られました。「馬鹿なやつ」という評価を承知で発言するのですが、実は、その発言がブレイクスルーに繋がる事を組織全体も認知していて、若手職員も、気持ちよく自由に発想し発言する組織になっていました。彼の中にそういう意図があったかどうかは定かではありませんが、私は、組織体そのものの在り方にこそ、根源的な問題があるのだと考えています。
 今回、組織として「アサーティブコミュニケーション」をしっかり取り入れて、信頼関係に支えられたコミュニケーションを活発にして、風通しの良い組織に変革し、成長の力を生み出そうという目的は理解できます。
 しかし、今度は、この「アサーティブコミュニケーションのスキル」を身につける事ができない人間にとっては、気詰まりする居づらい組織になるのは明白です。
 一つの手法や価値観を、組織に属するすべての個人に押し付けるような事は慎重になるべきだと考えます。
 極論を言えば、それをもし組織のトップが声高に話し、職員に強制するようなことになれば、それこそ、時代錯誤。戦前の日本社会のようなものです。
 今は、「多様性」を認める時代です。互いを認め合う。尊重し合う。大いに結構なことですが、批判や否定、評価があってこそ、真価が判るはずです。
 一人一人の個性(「くせがすごい」的な?)がぶつかり合い、時には火花を散らす事も、あるいは融合する事でこれまでになかったものが生み出されたり、傷つき傷つけ、それを糧に成長したり、そうした人間臭い組織が「良い組織」だという価値観は生まれないのでしょうか?やっぱり、これは「昭和の世代」の発想でしょうね。
 
 という事で、今後、私が今の組織で一番居づらい思いをするように予見しています。それでも、言いたいことははっきり言いたい。批判や非難、否定、大いに結構。
 以上、「アサーティブコミュニケーション」が身に着かない人間の主張でした。