職場である研修がありました。研修自体の内容はともかく、そこの中でどうしても引っかかったことがあるので、思考したいと思います。
引っかかった言葉は「言いたくても言えない、うまく伝えられない」という感情です。
その研修は、「誠実・尊重、信頼、肯定、自己責任」をポイントに、アサーティブコミュニケーションを身につけるという内容でした。
自分も相手も尊重しながら、自分の意見や価値観を伝え、対等に交渉できるコミュニケーションの方法論で、信頼関係を構築し、「心理的安全性の高い組織づくり」が目的だとは理解できましたし、それ自体は極めて当たり前であり、否定するつもりはありません。
皆、そういうコミュニケーションができるようになり、快適な人間関係ができれば良いと思います。特に、政治屋の皆さんには、身につけていただき、国会でも国際政治の場面でも円滑にコミュニケーションをしていただきたいものです。
今回、引っかかった言葉に戻ります。
「言いたくても言えない、うまく伝えられない」というノンアサーティブな感情は、なぜ起きるのでしょうか?
初対面、上司、何かと攻撃的、批判的といった人と会話する場面が多いのではないでしょうか?「言いたくても言えない、うまく伝えられない」という感情は、対人関係においては「自分がどういう人間と思われるかわからない」という不安・恐怖という感情が生み出すものだと思います。そういう人との「信頼関係の構築」とか「互いの尊重」という事は、すぐにはできません。時間が必要でしょう。果たして、アサーティブコミュニケーションのスキルは有効に機能するでしょうか?
そして、組織・集団においては、空気を読むとか、場をわきまえる、忖度する、など、「組織における個の統制」を強く感じる場面で生じる感情ではないでしょうか?発言する事に対して、批判されたり否定されたりすることを避けたい、「傷つきたくない」という自己防衛の感情が生み出すのだと思うのです。
言い換えれば、自分の発言に責任を持つ覚悟(批判や否定、評価を受け入れる覚悟)があれば、そうした感情を抱くことは少ないという事です。
SNSなどで匿名で誹謗中傷が横行する事が社会問題になっていますが、匿名にすることで自己責任を回避し「言いたいことを言う」風潮は典型的な例ではないでしょうか?「言いたくても言えない」から匿名で言ってしまおうという思考を助長しているSNSは、やはり規制されるべきなのだと思います。
以前の職場の先輩の一人に、かなり破天荒・無軌道な発言を敢えて、重苦しい会議で行う「ひねくれもの」が居られました。「馬鹿なやつ」という評価を承知で発言するのですが、実は、その発言がブレイクスルーに繋がる事を組織全体も認知していて、若手職員も、気持ちよく自由に発想し発言する組織になっていました。彼の中にそういう意図があったかどうかは定かではありませんが、私は、組織体そのものの在り方にこそ、根源的な問題があるのだと考えています。
今回、組織として「アサーティブコミュニケーション」をしっかり取り入れて、信頼関係に支えられたコミュニケーションを活発にして、風通しの良い組織に変革し、成長の力を生み出そうという目的は理解できます。
しかし、今度は、この「アサーティブコミュニケーションのスキル」を身につける事ができない人間にとっては、気詰まりする居づらい組織になるのは明白です。
一つの手法や価値観を、組織に属するすべての個人に押し付けるような事は慎重になるべきだと考えます。
極論を言えば、それをもし組織のトップが声高に話し、職員に強制するようなことになれば、それこそ、時代錯誤。戦前の日本社会のようなものです。
今は、「多様性」を認める時代です。互いを認め合う。尊重し合う。大いに結構なことですが、批判や否定、評価があってこそ、真価が判るはずです。
一人一人の個性(「くせがすごい」的な?)がぶつかり合い、時には火花を散らす事も、あるいは融合する事でこれまでになかったものが生み出されたり、傷つき傷つけ、それを糧に成長したり、そうした人間臭い組織が「良い組織」だという価値観は生まれないのでしょうか?やっぱり、これは「昭和の世代」の発想でしょうね。
という事で、今後、私が今の組織で一番居づらい思いをするように予見しています。それでも、言いたいことははっきり言いたい。批判や非難、否定、大いに結構。
以上、「アサーティブコミュニケーション」が身に着かない人間の主張でした。